明治末期、岡山から移築。大正末期に三階部分を増築。星島二郎の募金活動で造られた「アンジェラスの鐘」が吊るされており、鐘桜である。地域の人たちに朝夕の時を知らせていました。
※2017年11月に国の有形文化財に登録されました。
1879年(明治12年)建築。1913年(大正2年)岡山から移築。米国の宣教師宿舎として岡山に建てられた。同志社の手を経て岡山孤児院に移り、園舎等に使われた。日本で最古の木造西洋建築と言われる長崎の「グラバー邸」は1863年建立であるが、この「静養館」も時代的にはそう差はないと言えます。日向移住に伴って他の建物と共に解体、移送してこの地に建てられました。
この館は、多くの子供と職員の汗と涙が滲み込んだ愛の館です。
※2017年11月に国の有形文化財に登録されました。
石井十次亡き後、心友 大原孫三郎は、石井十次墓地の隣に別荘を建てました。
二人の友情は、死をも超えたと言えるでしょう。
戦後この地に移築。
平成7年(1995年)、孫三郎の孫の大原謙一郎氏の支援により改修しました。
「柿原政一郎明倫塾」昭和35年に柿原政一郎が新富町で建てた剣道場。財団法人正幸会のご厚意で2001年5月26日当地に移転改修し、子供達の武道の鍛錬に活用しています。
旧園舎を補修し、創作活動を中心にワークショップやアート塾等を開催しています。
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→インターネット空想の森美術館
祈りの丘空想ギャラリーは、かつて石井十次とその仲間たちが祈りを捧げた古い協会を改装し、絵画展や写真展、演奏会などの会場として利用しています。遠景には米良の山脈が霞み、周辺には茶臼原の長閑な田園風景が広がっています。
岡山孤児院は当時世界の多くの方にお世話になってきました。そのお礼返しとして先代の児嶋虓一郎は日本赤十字社の委託を受け、旧施設を利用して収容しました。
期間は昭和52年10月28日から同63年3月31日まで行いました。
かつて石井十次や子供達が大いなる夢と希望を抱き、心弾ませて通った道を西暦2000年「こころの道」と名付け、こころの道の創出を計って桜苗を植栽。
支える会々員初め、多くの方に呼び掛けて山桜230本、ソメイヨシノ100本植栽しました。
社会福祉法人石井記念友愛社児嶋草次郎理事長の言葉
「石井十次が、まだ十次と共に生きた職員子供達が、大いなる夢と希望を心に描きながら、あるいは愛の魂で胸を高鳴らせながら歩いた道です。その事を思いながら散策することで私達の心は開放され、アンジェラスの森が、湧き出でる「宇宙の泉」が楠や桜の大木が疲れた心を癒してくれます。」
最近では、茶臼原台地の風物詩になっている「こいのぼり」。
石井十次が孤児院を開設した時代、幼くして亡くなった子ども達に、こいのぼりを掲げて慰めようと石井十次の会が提案しました。100匹以上のこいのぼりが、毎年4月中旬~5月中旬まで掲揚しています。
大正15年、三十九年の歴史を持つ岡山孤児院が解散されることになり、その記念に茶臼原孤児院(現 友愛社)の静養館の前庭に石井十次の銅像が建立されました。作者の大原壽恵子は、夫大原孫三郎と共にその除幕式に出席したその前日に、茶臼原の台地に赤々と落ちる夕日を見て石井十次を偲んで詠んだ歌である。この辺りは、かつて石井十次の労働自活孤児教育の営域であった。
昭和33年4月、茶臼原で石井十次胸像除幕式が行われ、続いて同年11月、石井十次墓地入口に安田尚義歌碑が建立されました。この歌は児嶋虓一郎が石井十次の業績を顕彰する鎮魂歌として安田尚義に作歌を依頼したものと伝えられています。一首に流れる調べの中に、孤児たちの救済に生涯を捧げた十次や虓一郎の精神が脈打っています。
大正3年1月30日没、享年48歳没3年後に建立。倉敷の石工が刻し船にて高鍋町蚊口浦に揚げ荷車にて現地に運んだと言われています。
毎年1月30日の命日には「石井十次記念式」が開催されている。
なお、友愛園や保育園、有志の者で定期的に清掃が行われています。
背後に品子夫人(M28.9.12没)、三女 基和子(M44.5.15没)、辰子継室(S2.3.21没)の墓があり、周囲には小野田鉄弥、百田孟一、石田弁子、上田ふじ子をはじめ、孤児の墓60基があります。
石井十次は、1865年(慶応元年)4月11日、高鍋町馬場原に生まれました。父は万吉、母は乃婦子と言います。お父さんは高鍋藩の下級武士で、当時、男の子がいない家はとりつぶしとなる決まりがありました。
そこで父は寒い冬に水をかぶり裸で30日間、木城町比木神社にお参りし、男の子が生まれますようにとお祈りしました。そして願いがかなって生まれたのが石井十次でした。
十次が7歳の頃です。村祭りの日、母が新しく作ってくれた紬の帯を締めて出かけました。すると、神社の境内で、友だちの松ちゃんが他の子供達からいじめられていました。貧しくて縄の帯を締めて来たのです。
十次は勇気を出してイジメを止めさせ、自分の紬の帯と松ちゃんの縄の帯を交換してしまいます。縄の帯を締めた十次は、家に帰ると怒られはしないかとビクビクしながらその訳を母に話しました。すると母は、怒るどころか「それは良いことをしましたね」と十次を褒めました。
1
村の祭りの縄の帯 しめたる友をいたわりて
母の手織りのつむぎ帯 とりかえやりし少年の
十次の心のびてゆく
2
順礼の子を救いたる 医学生十次医書を焼き
三千の孤児の父となり 神にささげた生涯は
岡山孤児院の名と朽ちず
3
茶臼原の開拓に 労働自活の人づくり
孤児教育の理想郷 きずきてここに眠りたる
石井十次は世界の偉人